コツコツ
- アトリエ・パト

- 10月3日
- 読了時間: 3分
子供のころ、夏休みの宿題を残り7日ほどでやるタイプでした。
母はものすごく怒っていて、私は夏休みの宿題が手つかずの状況より、母のすさまじい剣幕に恐れを感じて、必死に宿題を仕上げていたように思います。最後の1週間ほどで日記も書かなければいけない、本を読んで読書感想文も書かなければいけない、ドリルもしなくてはいけない、絵も描かなければいけない、自由研究までしなくてはいけない訳です。ところがある意味関心なのが、すさまじい集中力で全てをやり遂げる自分がいました。日記はさすがに夏休み中を覚えているわけではない、しかし嘘は書けないと変に真面目で(その真面目さを毎日書く方に使えばいいのに・・・)母が手帳を取り出したり、ためてある新聞紙を出してきて「この日は雨や、どんな日やったか思い出してみ。」とヒントをくれるわけです。それで私は必死に「その日は友達が遊びに来て、何をして遊んだ。」と記憶を辿り、書き上げていくという事を何時間にもわたってやるのでした。戦場のような状況の中に、友達が遊びに誘いに来るのですが、家に缶づめで宿題を仕上げなくてはいけません。気まずそうにする私に母は「自分の口で説明しておいで。」と言い「ごめん、まだ宿題できてないねん。」と誘いを断った時の「えっ・・・まだ?」という短い返答と、びっくりした友達の顔を今でも覚えています。奥から「そろそろ机に・・・」という母の催促の声があり、とぼとぼと戻って宿題を再開するのでした。「あんた〆切前の小説家みたいやな。」と、からかう母に「そんなええもんかよ!」と突っ込みたくなるのを黙って黙々と書き上げていました。こんなしんどいのは、もうごめんだと思うのですが、反省することもなく、毎年、いや、大人になってもやっていたように感じます。たちの悪い事に、そうやって書き上げた作文や自由研究が表彰されてしまったりして、世の中をなめてしまったのもあるかもしれません。
ところが35歳を過ぎてきた頃から、この方法は多大な疲労を招くようになり、「いつまでこんな自分で生き続ける気なのか!」と心底自分が嫌になり始め、そして結局「コツコツやった人にはかなわない。」ということを完全に認めるようになりました。
コツコツやる。私の中で言い換えると「ただやる」
毎日毎日、ただやってきたことが、長い年月積み重なっていく。それは「形成される」という感じで、一時だけ思い切り出し切るのとは違う、もっと確かなものという感覚があります。毎日、何年にも渡って走り続ける人、庭を世話する人、料理を作る人、様々な人が様々な事にコツコツと向かい合っている。その人の地になる方法。人に見せるためではなく、取り繕うためではなく、きっと恐らく自分のために
しているのだと思います。私はコツコツしてきたことあるかなあ。もしコツコツと何かに取り組んだら、その最中は地味であまり何も感じないかもしれないけれど、振り返った時に、ものすごく大きな何かになって、自分を形作っているのだろうなと思います。



